昭和45年8月2日 朝の御理解

  御理解 第60節
 「おかげは受け徳、受け勝ち。」



 「おかげは受け徳、受け勝ち。」これは、どんなにでも頂けます。問題は、おかげということが、一番、えー、問題になるとこだと思います。おかげということ。例えば、えー、今日、私は、朝から非常に喉が渇いております。お水を持ってきてくれち言うたら、こういう大きなコップに(ふっふ)皆さんは、別に、このお水が、その、飲みど、その、飲み儲けとか、飲み得だからといって、そんなに、がぶがぶ飲めるもんじゃありませんしね。飲んだからと言うて、それが、どうという事じゃありません。だから、ここは、その、おかげは頂き儲けと、ね。言ったような物ではない事が分かりますですね。ね。問題は、その、結果がね、おかげを受けたことが、かえって、えー、その、身体を壊すような元になったり、ね。例えば、お水で、身体を壊すようなことは無いにしても、例えば、お酒なら、お酒が、ここに、ただで飲める酒があるとする。さあー、呑め呑めと、もう呑み儲けと言うて、ま、呑んだと致しましょうかね。ね。もう、ただじゃからと思うて、あんまり飲んだら、あくる日は、もう、身体がきつうして、二日酔いで、仕事も出来んと。言うようなのでは、やはり、呑み儲けというようであって、実際は、結果においては、おかげになっていないのですから、ね。これは、呑み儲けと。おかげは、いわゆる、頂き儲けということだけでは無いのですね。じゃあ無いという事が分かりますね。
一本道の信心を頂きますと、おかげという事を、もう、それこそ、乱発するように、おかげ、おかげという事を使いますね。おかげを頂きました。もう、全てがおかげを頂きました。だから、その、おかげの意義というか、その事を分からせて頂いて、使うおかげだったら、もう、宗教の、おー、全てと私は言うても良いと、ね。宗教で、宗教を持って分からせようとして下さる、教えて下さろうとする、その、全てが分かっておるという事になるのです。ね。おかげを頂きましたと。言う事の意味が分かったら、もう、それこそ、降ってもおかげ、照ってもおかげ、ね。ですから、本当にお互いが、簡単に使ってる、やあ、おかげ頂きましたと。こんにちは、おかげ頂きましたとこう言う。そのおかげという事を、ほんとにおかげと分からせて頂いて、心から、いわば、実感として、おかげを頂きましたと言えれるようになる為に、まあ、信心の稽古をしておると言うても良いくらいです。そういう事になりますですよね。ですから、ここでは、その、おかげという言葉の追求と言うて良いと思います。おかげの、おかげの追求じゃないですよね。おかげという言葉の追求。おかげという言葉の持つ内容です。いわゆる。ね。ある先生のお話に、ある御信者が、お参りをして、先生昨夜は、おかげを頂きました。今朝がたから、起きてみましたら、表の戸が、このくらいばっかり開いておりました。ね。聞いてみますと、こちらの隣も、こちらの隣も、その、泥棒が入ったらしいです。私のほうにも、まあ、入りかけたようですけれども、おかげで何一つとられずに、広大なおかげを頂きましたと言うて、お礼に参拝してきた。で、その事に対して、ま、お取次ぎをなさる先生が仰っておられる。丁度、参り合わせておった信者に、何々さんがこういう広大なおかげを頂いて、お礼参拝させて頂いておるが、ね。その時に、例えば、盗られたとするか。ね。お金ならお金、物なら物を盗られたとする。ね。それこそ、この○○さんが言うておるように、入りかけたけれども、入らずに済んで、おかげ頂いたと。または、泥棒が、例えば、前を通っただけぐらい。それこそ、おー、平穏無事、何にも無かったという。その、三つのうちで、何が一番、どれが一番おかげ頂いたと思うかと、言われたら。そら、もう、あーた、先生、入りかけてから、盗られとらんとじゃから、もう、こげな広大なおかげはありませんと言うて、まあ、知り合いが答えたとこう言うのですね。まさしく、その、私共はですね。そういう時に、心から、おかげを頂いたと思うのですよね。もう、本当に、夕べは広大なおかげを頂きましたと。ほんとに、そげん時のおかげ頂いた時には、それこそ、お神酒の一升ぐらいはお供えしてからと言っちゃ、お礼が申し上げたいような気持ちでしょう。ね。両隣には泥棒が入っておる。自分方も、ね。入ろうとしたけれども、った金光様の信心いただいとりゃ、やっぱ神様のおかげで、とうとう、泥棒が入りきらんなり、戸を開けただけで逃げていっとる。広大なおかげを頂いた。という訳なんです。話を聞いておるとですね。そういうし、また、よくよく話を聞きよるとですね。それよりも、やはり、平穏無事であったという事の方が、もっとおかげです。という事にもなりますよね。もう、その時には、私どもが、平穏無事であるということに対しての、おかげというものが、そう実感して、今日も、無事平穏におかげを頂きましたと言うておるけれども、お神酒の一升も持って御礼に出ろうと言う気持ちは起こらんでしょう。実を言うたら、それの方がもっとおかげですよねえ。んんー、ね。事故にあった。はあー、もう、本当に不思議なおかげを頂いて、まあ、ちっと頭を打っただけど、ちょっと怪我しただけで済みました。ほんとに、広大なおかげを受けたと、こう思うけれど、ね。一日、それこそ、無事故でおかげ頂いたことの方が、もっと、もっと有難いことなんです。ね。ところで、また、今度、色々よくよく考えておりますとですね、えー、自戒作用というおかげがあります。ね。ということはどういう事かと言うと、なら、泥棒に入られたと。がっぽり盗られたとこう言うておる。これはね。根本的に、その事を、私は、考えるときにですね。その事は、もう、もっと、もっと、素晴らしいおかげなのです。私共が、おかげを頂きたいと思うて、日々、信心の稽古をさせて頂いております。ね。信心して、変わってきたことが起こってきたら、有難いと、心得て信心しろと仰います。もう、実に深遠な御教えだと思いますねえ。信心して、変わったことが起こってきたら、有難いと心得て信心しろと。変わったことということは、それは、はー、変わったおかげを受ける。ね。例えば、病人であるならば、ずっと、毎日毎日熱が続きよったのに、お参りしたら、もう、その日から、熱が下がったとか。痛みが止まったとかと。なるほど、変わった事ですけれども、お参りをさせて頂いて、お願いをさせて頂いたら、余計痛み出したと。ね。余計苦痛が増したと。言うようなおかげを、私は、自戒作用といいます。ね。いわゆる、お取次ぎの働きの、いわゆる作用なんです。そういう作用が起こってくる。身体の上にも、家の上においても。
えー、信心が少し、熱心になってまいりますとね。そういう例が、もう、沢山あります。右と願えば左。どうぞ、左にと願うたら反対になったと言ったような事はあります。そこで、信心の道理が、段々、分かってきて、お願いをすればするほど、こういうことになってくるから、あんまり、もう、これはお願いは、もう、神様に寄り付かんほうがええと、ね。して、まあ、言うなら、時々お参りして、お願いするぐらいの方がおかげを頂くと。確かに、そういうことも言えるんです。ね。それはね、熱心に参れば参るほど、いわゆる自戒作用というものが、大きくなってくる。ね。それを御道流に言えば、おかげを受けるということがね、すっきりとした、その、昨夜のご理解のようにね。根本的助かりということです。ね。根本的助かりということの為にはです。なんと言うても、やはり、その、自戒作用であるところの、おかげを受けなければ出来んのです。ね。沢山の借金を持っておる人がですよ。どうぞおかげを頂きますようにという事になって来ると、先ず、そんなら、借金を支払わせて頂くという事から始まるのです。ね。直接、直ぐは貯まらんですもん。やっぱり、ね。いくら、あーた、えー、一千万円の借金をもっとって、なら、一千万円貯まりましたち言うたっちゃ、こら、やっぱり、一千万円穴があいとるなら、いっちょん貯まったが、貯まったようにならんです。ですから、そん為には、先ず、一千万円の支払いから、一生懸命させて下さる事になるのです。ね。そういう、御道の、まあ、言葉で言うと、めぐりのお取り払いと言うております。ですから、その、めぐりのお取り払いということが実感して分かるようになると、さっきの、その泥棒の入ったお話じゃないけれども、泥棒に入られたという事はです。実に広大なおかげを頂いてという事になるのですよ。ね。不思議にですね、そこんところがその、有難いと分かってくるとですね。もう、不思議におかげを頂くですね。もうこら、間違い無しに。えー、あれはあの、桜井先生、福岡の総代さんで、家具屋さんがおられましたでしょうが。あら、何とか言われよりましたですね。えのきずの、えのき、かぐ、ねえ、家具をなさる、なんとかいうて、有名な総代さんがおられましたが、此の方は、三度も火事に合うた。私は、その話を聞かせていただいたが、その、あるときの火事の時なんかはですね、えー、もう、おきあげとっとを、外へ出てから、その、焼けよる火事を眺めながらですね、神様、お取り払いのおかげを頂いて有難うございますと言うて、先ず、お礼を申し上げられたち言う。そしてね、次の工場はどういう風に設計するかという事を神様に願わせていただきながら、帳面を持っていって、その、鉛筆で、一つ、御礼のお供え、幾ら幾らと。一つ、うー、次の、いわば、今度の工場の何が幾らというふうに、先ず、一番初めにその、御礼のお届けの金額が書いてあったち言うです。自分方の焼けよるとば見てからです。ね。もう、此の方ばっかりは、それこそ、焼け太り、焼けるたんびにおかげを受けておる。そらまあ、焼け太りという事をよく申しますよね。やはり、そういう作用というものが、やっぱ、あるんですね。そこを、やっぱり、そういう意味でのね、お取り払いは、やっぱり、まあ、私共の、つたない信心では、やっぱり、いー、きつい。ね。そういうお取り払い頂くというのは。信心しよりゃ、次々と悪いことが起こってくる。信心しよりゃ、次々と、おー、困った事がおきってくるというなら、こら、やっぱり、あんまり打ち込んじゃ行かんぞという気も起こりま すよね。けれども、やっぱり、一つ、ほんとに、はまってきますとね、もう、それこそ、もう、信心して、えー、どういうことが起こってくる。まあ、来るなら来い。それこそ矢でも鉄砲でも持って来いといったような、あー、元気な心、度胸が出来て、それに取り組んで行くという人もあります。まあ、私共の場合は、まあ、ご他聞にもれない例だったと思いますですね。ところがね、ほんなら、金光様の信心すりゃ、そういう難儀なことに合わなければ、ほんとのおかげは受けられないかというと、いや、決してそうじゃないのです。
今、私の居室に軸がかかっております。それは、須田先生が書かれた物です。信心は御用なり。信は力なりと書いてあります。ほんと、力強い字で書いてありますですね。信心は御用なりと。信は力なりと。私は、今日はね、この、おかげは受け徳、受け勝ちという事を。そういうような意味でおかげという事を頂いたらですね。今も、申しますように、有難い、勿体ないの、おかげの中に、自戒作用が出来ておる。言うなら、借金払いが出来て行くという事なのです。今日は皆さん、おかげという、言葉の持つ内容、ね。を、まあ、例えば、程度の低いところから、ね。段々分からせて頂いてから、分かるおかげ。そして、いよいよ、おかげという事をですね、もう、それこそ、広い範囲に、おかげという言葉をお互いが使っておるが。それこそ、乱発するように使っておるが、果たして、おかげの持つ内容という、おかげという言葉の持つ内容が、知っておかげを頂まして有難うございましたと言えれるようになる事のために、信心をしておるといってもいいくらいですよ。そんなに、この、おかげという言葉は素晴らしい。ね。中村さんの、お話の中に、いわゆる中村さんの、その、発明された言葉の中に、ね。えー、お供えのし儲け、お参りのし儲けと言って、話されますですねえ。いわゆる、お参りのし儲け、お供えのし儲けというような、信心が分かったらです。もう、おかげは、ずーっと、それこそ、末広形におかげは広がっていくだけしかないのです。このことが本当に分かったら。ね。ところが、実際は分かっておっても、五体がいう事を聞かずに、それが出来んところにです。それが分かっておりながらです。分かっておるけれども、やっぱり、去年が百円なら、今年も百円しかお供えが出来ないところにです。し儲け的な事になって来ないのです。ずーっとその精神が分かったらです。ね。今年が百円のお供えが出来よるきん、来年な、ニ百円のお供えが、楽に楽に出来るようなおかげを願って、それを実行していくならば、もう、末広がりに広がって行く筈です。お供えのし儲けという事は、そういう大変な事なんです、言うたら。それだけのお供えの出来るだけに、家のほうも繁盛していくはずです。須田先生の言われる。いわゆる、信心は御用なり。ね。信は力なり。例えば、ほんなら、御用を一つさせて頂くという事でもです。ね。おかげ頂きましたと言う、内容を持っての御用なんです。もう、それこそ、われ先にですね、させていただく御用。そういう、私は、御用がですね、なるほど、信心は、そういうものだという事が分かります。誰かしようばい。せん時にはしようというごたるもんじゃですね、御用が御用になりません。ね。例えば、お掃除一つさせて頂く御用でもです。ね。誰かしよう。してん無かならしよう。同じせなんなら、まあ、そん、ずーから落ち込んだごたるとじゃなくてから、ほんな、ちょいと、こうこうしてから、先日、ある方が言うた。ここの御祈念ち言うのは素晴らしいばってん。ここのお便所だけは汚いち言わした人がある。ここのお便所は。だから、どうでんこうでん一丁、内から行ってから、もう、その、も少し磨き上げたいち。ね。だから、もう、ほんとにですね、もう、我先に、しかも、ずーから打ち込んで、ね。打ち込んでの御用。いわゆる、我先にする御用です。ね。潔い心が伴うての御用です。そういう御用を信心というのである。なるほど、その事、御用即、もう、信心だということが言えます。ね。まあ、ここで、今日、なら、自戒作用という事を申しましたがね、難儀なことが起きてくる。めぐりのお取り払い。これはもう、絶対間違いのないけれどもです。お取り払いを頂く前に、催促を受ける前にです。こちらが支払うて行こうという事なんです。ね。これは、やはり、須田先生の一つの御流儀というかねえ。あれだけのおかげを受けられて、いわゆる、自戒作用を受けんなりに、あのおかげが段々広がっておる。いつか、ここに見えられてお話を頂きましたが、あー、そういう、おかげが受けられるのが、実は金光様のご信心なんだそうです。ね。催促を受けてから御用、催促を受けてからというのは、災難なら災難、難儀なら難儀が起きてから、ね。それも、ね。考えようでは、本当に、ほんとのおかげが頂きたい。根本的なおかげを頂きたい。また、神様も、根本的なおかげをやりたいというところからです。どうしても、お取り払いにかかりなさらなきゃならない訳がある。から、お取り払いが始まるのですから、お取り払い頂いて有難いということになるけれどもです。その、向こうからもって行かれるようにしてから、取り払われるのは、やはり、術ないのです。ね。ある意味で。ところで、そこんところをですね、私は、おかげの頂けていけれる道は、今日の60節「おかげは受け徳。受け勝ち。」ということだと思いますね。おかげは受け勝ち。しかも、受け徳なんです。いわゆる、御用の積極性ということが言えましょうねえ。ね。そこからね。そこから、なるほどと、合点の行くおかげ。それが信なんです。いわゆる力になる。それが、徳になるのです。ね。
今日は、このおかげと。おかげは受け徳。受け勝ちというのは何か、ちょっとこれから受けれるという感じというのは。何とはなしに受け儲けと。行ったような感じが致しますね。それを私は、例えばほんなら、今日の酒はただじゃけん、誰でん、どんどん呑まんのち言うてから、なら、まだ、もう、それこそ欲と二人でがぶがぶ飲む。ね。飲うだまでは良かったばってん、あとはもう、動ききらんごつなってしもうた。ね。すと、明くる日までもさわる、ことになるんです。だから、これは、いかにも飲み儲けのごとあって、呑み儲けじゃ無い。おかげのようであって、実は、おかげじゃないという事が分かりましょうが。だから、そういう意味じゃないことを、一つこれは、分からにゃいかんのです。おかげは受け徳。受け勝ちということは。ね。いわゆる、おかげという言葉の持つ内容をです。段々、深く分らせて頂いて、ね。泥棒が、あー、表を通った。それこそ、今日も平穏無事であったという事は、おかげと分かるという信心。やっぱ、有難い。ね。いわゆる、神国の人に生まれて、神と神との大恩を知らぬことと仰る。神の、神国というのは、これは、日本だけじゃない。世界中が、そのままが神の国なんです。ね。神様の、御守護し給う、ご支配化にあるところに、私共、人間が住まわせて頂いておる。ね。その、大恩が分からせていただくところからです。その、大恩に報い奉るというのが、神恩報謝の信心であり、性格である。言葉は易いけど、なかなか難しいところ。神恩報謝のために、ね。積極的な御用。いわゆる、世のお役に立たせて頂くという事なんです。まあ、なかなか難しい。ね。泥棒に入りかけられた。おかげ頂いて、何一物とられんですんだと。広大なおかげ頂いたなあと。広大なおかげ頂きました。本当に、広大なおかげに間違いはないけれどです、ね。そんなら、がっぽり盗られたということに、ね。そういう時にも、やっぱりおかげ。それは、もっとおかげなんです。いうならば、根本的な助かりに触れていくところのおかげなのですから。もっとおかげなのです。と、いうような事をですね。様々な時、様々な場合にですね、その事の事実をね。やはり、確かめ確かめ信心を進めていかなければいけない。私共は、なかなかその、あ、一決した、そんなら、須田先生あたりのような信心は、ようで来ません。ああいう生き方でいきゃ、もう、それこそ、盗られもしなければ、あー、泥棒が入ろうともせんぐらいのおかげが、ずーっと開けてくるでしょうけれども、ね。私共は、なかなか出来ませんけれども、けども、場合には、そういうような生き方の信心の時も在らなければならない。ただ、信心が少し緩んでもです。ね。まあ、お取り払い、お気付けを、お取り払いのお気付けを頂いたというふうに頂いたり、お取り払い頂いてとして、御礼を申し上げるといったようなね。それこそ、ここの総代さんのお話じゃないけれども、自分方の焼けるのを見てから、ね。結構なお取り払いを頂いて、有難い。御礼のお供え幾ら幾らと、一番口に頭に浮かんでくるというくらいな信心。ね。もう、これだったら、絶対次のおかげは間違いない。焼けてもこれは、絶対の焼け太りのおかげになる。ね。だから、様々なおかげを頂いていく上の、まあ、一つの、おー、手段というか、道はあるんですけれどもね。私共が、一番願いとしなければならない事は、その、お取り払いも受けんで済むおかげ。ね。それは、私共がね、須田先生の言われる精神ですよ。御用せろ、御用せろ、御用すりゃ助かるといったような意味じゃないです。ね。もう、信心は御用なりということなのです。そこに極まった。信心は御用なりと極まる。そこから生まれてくる、体験が、信は力なりということです。信は力なり。いわゆる、受け徳である。徳が受けられる。ね。信心て実にデリケートですねえ。どういうところから入っていっても、いわゆる、おかげは頂かれる。その、おかげという、そのおかげの、今度は、持つ内容を検討してまいりましたらもう、限りが無い。ね。それを私は、まあ、一まとめに、まとめて、ここだけで言うておることは、神愛と言うております。ね。全てが神愛だと。ね。神愛の現われなんです。それが、病気になり、形に表れたり、災難ということに現れてくるです。そして、これも、絶対に間違いのないことなんですよ。だから、皆さん、そこのところをね、一切が神愛と分からせて貰えれる。それを、様々なことに、直面するたんびに、本当に、先生が言われる通りだと悟っていく。ね。そこから、昨日です。ね。神を杖につけば楽と仰られる。もう、本当に、そういう、信心が分かる時にです、神を杖についておるのであるから、いつ、どんな場合でも、ね。楽じゃというおかげ。神を杖につけば楽じゃというおかげが受けられる。ね。まあ、それを、まちっと言うとですね。私共は、どうでも良いとい事になるのです。おかげば、やおら頂かんならん。というような、その、ね。例えば、そういう信心が出けておると、自ずと出来てくるのが、これなんです。信心もせんのに、どうとかなるばのと言うごたるとじゃ違う。ね。そういう信心が出来て言って、自ずと心の中に定まってくる心が、どうでも良いという心。ね。神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんのだし、ね。神様が下さるものに、右左、不平不足は申しません。だから、どうでも良いのである。ね。おかげ急ぎもない訳である。そういう、信心になりゃ、もういよいよ受け徳、受け勝ちという事になる。どうぞ一つ、今日は、御理解の中で、これが一番短い御理解ですね。おかげは受け徳。受け勝ち。一番短いけれども、実を言うたらね。もう、金光教というよりも、宗教のね、あのー、全てが、あー、ここに焦点を置いて、様々な教えがあり、おかげが、あー、あり、いー、修行がありという程しの大変な私は、御教えだと思いますね。おかげという言葉のね、持つ内容なんです。ね。お願いをして、病気が治りましたというような程度からの、おかげと。ね。例えば、病気がよくならずに、それが、例えば死んでもです。それをおかげと頂けれる。また、事実おかげだという事なんです。信心して、おかげを受けたら、ね。それが、いわゆる、夕べの御理解から言うと、根本的な助かりのことのための神の働きだという事になるのです。それはね、今日も、広大なおかげを頂きましたと。ま、簡単に言うとりますけれども、そういう内容を、内容としたもの。また、その内容が、まあ、分かってからの、おかげを頂きましたと言えれる信心が出来るじゃないことでしょうね。どうぞ。